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留学準備

自分が留学する事を考え出したとき、多くの方のHPを渡り歩きました。
そのとき、「この人はどういう経緯で行動を起こしたのだろう?」と思うことが多くありました。
似たような境遇の人を探して、どこか「自分もやれる」と思いたかったのかもしれません。
なので、非常に簡単ですが、留学にいたるまでの経緯と準備について書いてみました。
何か参考になれば幸いです。
さらに詳しいことを知りたい場合はメールをください。

ただし、当時の情報を振り返りながら書いているので、現在は状況が変わっている可能性があります。
参考程度にとどめていただき、現在の状況は必ず各関係機関・関係者に確認をしてください。

高校時代

この分野にいつから興味を持ち出していたのかというと高校時代にさかのぼります。
高校3年生になって間もない個人面談の事でした。
進路を決定するための面談だったのですが、いまいち自分の進みたい方向がわからない。
唯一わかっていたのは「人と接する仕事がしたい」ということ。

その中で自分が興味を持っていることは何か、ということを考え、
当時出した答えは「スポーツ」そして「英語」
(ちょうど英語に興味を持ち出した頃だったので。
喋れたら楽しいよね、位の感じです)

しかし「スポーツ」といっても自分が選手として、というのではなく
「トレーナー」というほうに、興味を持っていました。

その先生との話の中で「では専門学校に言って針や柔整をとる?」
興味はあったけれど、、ちょっと自分のやりたいことと違う気がした。

「じゃあ体育大に行く?」
それも何か違う。

「スポーツって言ったらアメリカ、アメリカはそういう分野が日本に比べて
進んでいると思うけど、どう?英語にも興味が出てきているわけだから」

なるほど・・・
でもそのとき出した結論は
「無理」
当時は英語に興味があったし、コミュニケーションをとろうと思えば
取れる程度ではあったのかもしれないけれど、とてもではないけれど
何か学問をするだけの力はなかった。
それに度胸も。
それで渡米したら絶対に中途半端になって何も得られないだろうと判断しました。

そして、もうひとつ「教師」というものにも興味があったので
「英語」「留学」「教員免許取得可能」
という条件の下志望大学を探していくことになりました。

いまだに、「高校在学時に留学していたらなぁ」とか
「卒業して渡米していたらどうなったかな?」
と思うことはありますが、日本でさまざまな時間を過ごしたからこそ
今、ここで過ごしている時間があるのかな、と思います。
きっとここまで充実させることもできなかったのではないかと思います。
そして、本当に自分がやるべきことというのは
めぐりめぐって戻ってくる。
今すごしている時間は、その先の自分のための時間なんだな、と思います。


2000年以前

大学の部活(ラクロス)を通じて、アメリカで活動されているトレーナーの方と知り合う。
実際に顔を合わせたことは残念ながら一度もないのですが、電話、メール、ファックス等を通じて
トレーニング方法などのお話を多くうかがう機会がありました。
その際に、自分の興味をお話させていただき、相談に乗っていただきました。
その中で「向いているかもしれないね」といわれた一言が
自分の中での原動力となっています。
その後、なかなか具体的な行動に移すことができなかったのですが、
これから先、常に頭の中にアスレチックトレーニングのことが根付くようになりました。


2000年

交換留学生としてハワイ大学マノア校に派遣される。
当初は言語学を学びに行くという名目であったが、授業が始まる数日前に
シラバスをみていたらathletic trainingという分野があることを知る。
その足で、担当者のところに相談に行く。
athletic trainingという分野に興味を持っていること、1年間の交換留学なので時間がない
ということを説明。後日連絡が来て朝の5時30分からトレーニングルームでの実習。
授業も平行してとる。今思えばよく許してくれたものだなぁ、と思う。
最初はわけのわからないことだらけであり、何の役にもたてず、選手からも
「誰あれ?」というような扱いではあったが、慣れてくるにつれ、自分の存在を認知して
もらえるようになった。細かいことは省くけれど、大変な時間もあったけれど、
自分にとってかけがえのない時間をすごさせてもらえた。
帰国の時には選手もトレーナーからも「戻ってこいよ」という言葉をかけてもらった。
この時の想いから再度留学し、本格的にathletic trainingを学ぼうと思った。
当時の様子を、ハワイ滞在時に書いた物はこちら
(残り3ヶ月のときに回想記としてつづっています)


2001年

大学に戻り、卒業の準備。
再留学の準備も始める。
しかし、10月ごろ、もうひとつの夢であった教員になる決意をする。
3月になり卒業


2002-3年

教員として働き始める。
日々の忙しさに目が回り、再度留学したいという気持ちも少しありながらも、じっくり考える暇もなく時間が過ぎる。
あっという間に1年目終了。
この間は留学等に関して、何の動きもなし。


2003年4月~7月

上と同様、さらに忙しくなる。
考えている暇などありません。


2003年8月


ハワイ大でお世話になっていたトレーナーから1通のメールが届く。
ずいぶんとメールを書いていなかったので近況報告のメールに対しての返事だ。
書き出しは他愛のないもので、「こちらは元気にしている」とのこと。
ただそこから先の文章が今後を考えさせられることになる。
「お前は今何をしているんだ、こっちには(トレーナー)戻ってこないのか」

日々の忙しさの中で考えることすら忘れてしまっていた想いがのしかかってきた。
ここから彼との連絡を少し連絡を取り始める。
一人暮らしをしたことにより少し時間ができた。
彼とのやり取りの中、当初はハワイ大に戻るつもりであったが、
ハワイ大はentry-level masterプログラムは開講しないことになったということで
ほかの学校を探すよう指示をされる。
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*上の情報はこの当時に自分が言われたことであって、
現在UHはadvanced / entry-level)両方での
開講を目指して動いているようです。
必ず、各関係HPで確認してください 
(Jul,18/04)
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ここから、まずはNATAに認可されているentry-level masterプログラムを持っている大学について調べはじめる
大学名は、NATAのHPにいけばすぐにわかるのだが、詳細については調べる時間がなかなかなく、
フラストレーションがたまっていた時期でもある。


2003年9月~10月

後期がはじまり、再び日々の忙しさにより、学校調べや情報収集停滞。
時間のなさから、2004年度はあきらめて2005年度に渡米しようかと脳裏をよぎる。


2003年11月


今年度限りで退職することを校長、副校長に伝える。
このとき、まだ情報収集も思うように進んでおらず、出願はおろか、候補すら絞れていない状況。
これで退路がなくなった、と決意したとき。
仕事に時間がとられてばかりであったが、ひとつの方向性が自分の中で絞れたので精神的にはどこかほっとした。
しかし「情報収集」という点においては、やりたいけれどやる時間がないというイライラが募るのみであった。


2003年12月

各大学のプログラムディレクターに連絡をとり始める。
対応はさまざま。
やはり、対応が丁寧なところのほうが印象が良い。
丁寧な対応ができないところはきっと忙しすぎて、対処できていないか、
人がすでに十分にいるので、そんな面倒なやつは相手にしたくない
といったところであろう、と自分で判断をした。

推薦状を書いてもらうことになるかもしれないと、書いていただく予定のかたがたにご挨拶に伺う。


とある、トレーナーの方のHPの掲示板に情報提供をお願いする書き込みを11月ごろにしていた。
それを見た方からメールが届く。
University of Arkansasの存在を知ることになる。
プログラムディレクターに連絡を取り始めた。
自分はハワイ大学で関連するような授業を少しだけとっていたので、それに関するトランスファーや、
専門が違うため、必要なpre-requisitesについても非常に丁寧な対応をしてもらえた。
気持ちがそこにむいた。


2004年2月

前述のかたがたに推薦状の正式以来。
3通必要だったので、1通は学生時代の評価を書いてもらえるだろうということで、教授に。
2通目は、社会人をしていたのでその職場から推薦状がないとなると、印象が悪いだろうと判断したのと、
学生とは違う面を評価していただけるだろうと目論見、お世話になった同僚の先生に。
3通目は、自分の専門分野と違うことを大学院で学ぶので、その関連分野の人からの
推薦状があったほうが良いという話を聞いたことがあるので、ハワイでお世話になったトレーナーに。

準備した書類は
学業成績表、大学のフォーム、自分の略歴、なぜその分野を勉強したのか、、athletic trainingとは何か 
といったものをパックにしてお願いをしました。
少しでも具体的なものがある方が、依頼された方も書きやすいだろうと思ったので。

有効期限が過ぎていたのでTOEFL再受験。
しかし全く勉強していなかったので散々な結果に。
とはいえ出願する点数には到達していたのでそのまま提出


2004年 3月

期限ぎりぎりで、各大学出願。
オンラインで出願できるので便利。
ただなぜかクレジットカードが切れなくて、チェックを送ることになり面倒なこともあった。

出願後、その他必要書類を大学に送付することになるのだが、
一通り送付し、連絡を待っていたら
「ハワイからの成績表が届かない」といわれる。
1ヶ月ほど過ぎているから届いているはずなのでその旨を伝えると
「届いていない」の一点張り。
ハワイに連絡をとっても
「この日に送りました」とのこと。
もう一度出願先に連絡をとると
「あぁ、ありました」

アメリカの事務はずさんだから書類をなくすとは聞いていたけれど・・・

出願するちょっと前に留学に関するHPをみていたら、9月入学ならば、
前年の年内に出願を目指すということがかいてあった。
さすがにこの時期、ぎりぎりに出願する人はいないのか、と肩を落としたが
とにかく出願、引っかかればラッキーくらいの気持ち。
でも不安が多かった。


2年間お世話になった学校を退職


2004年 4月

中旬、プログラムディレクターから、受かったという連絡を受ける。
しかしながら学校から何も正式な書類が送られてきていないので実感がわかない。

その後、Pre-requisitesのトランスファーに関して必要なシラバスを集めるよう指示される。
ハワイ大学でお世話になった先生たちにメールを送り、シラバスを送ってもらった。
迅速な対応に感謝。

シラバス送付後、1週間ほどして再度プログラムディレクターから連絡がくる。
そこでpre-requistesが決定。
その中の授業の関係でsummer session(6月からの授業)をとったほうが良いので、
Starting statusを秋から夏に変える手続きをするように指示される。
そんなことができるんだ、と思いながらも担当者にメールを送る。
数日後、夏学期でOKという連絡が来る。

ほっとしたのもつかの間。時間が差し迫ってきていることにあせる。
なぜならビザを申請しなければいけないのに
まだ書類が届いていないから。
担当者にメールを書き、I-20を送ってもらう。

ビザの申請方法が、2000年留学時とはだいぶ変わっているので戸惑う。
時間も差し迫っている中、書類不備で発給されなかったらばからしいと思い、
ネットで探して代理申請してくれるところを見つける。
値段は一万二、三千円位だったかな?


2004年 5月

前述の代理業者に連絡を取るも、すぐに連休に入ってしまい連絡が途絶える。
時間がないので焦りが募る。
連休明けにすぐにお願いをし、書類を準備。
前回の学生ビザの有効期限がまだ残っていたので、面接は免除。
約3~4週間で発給されるとのことなので、
何とか間に合うな、と思っていたら、時期的にもすいていたようで、1週間で発給される。
でもやはりビザがなければ始まらないので、早めの申請がいいでしょう。

航空券を購入。6月28日から授業なので、
その数日前を希望するも1週間前のものしかないとのこと。
仕方がないのでそれを購入。

(こちらについてからの感想ですが、やはり1週間くらい前もって来ていてよかったです。
周りをゆっくりと見て回る余裕があるので)

大学の寮と連絡を取る。
この時期になってしまったが、何とか部屋はあるそう。
最初に申し込んでいた日程が、航空券の都合で早まってしまったので、その旨を伝える。


予防接種を受けに行く
英文で書いてもらう必要があるので、それができるところを探す。
幸い家から近いところにあったので、そこで抗体検査をして、
その証明書を発行してもらう。
予防接種の種類は大学によって違うようですが、たいてい3種混合というのを指定されるそうです。


実質動きはじめたのは3月からの3ヶ月。
やはり時間がないのが一番の不安材料でもあったし、イライラの原因でもあった。
留学のHPに書いてあるのは伊達ではなく、やはり早め、早めの準備を心がけたほうが良いでしょう。
自分がぎりぎりにでも受け入れ先を決めることができたのは
周りの人々に恵まれていた、ということが非常に大きいと思います。
4月末から今まで滞っていたものが一気に流れ始めたような感じで、
それはそれで面倒なことも多く、時間ばかりがとられてしまっていましたが、
この機会を与えていただけたわけだからがんばろうと思います。

2004年 5月

 
   
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